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アラハバキ神の研究

 投稿者:立木観音  投稿日:2013年10月 7日(月)20時18分28秒
返信・引用
  たまにしか訪れないので、この際もう一つ情報を。
東日流外三郡誌に出てくるアラハバキ神についての文献を紹介します。
近江雅和著{記紀解体-アラハバキ神と古代史の現像}彩流社
この本はアラハバキ神の由来、日本文化のルーツ、記紀の内容への疑問等いろいろ示唆に富む内容を含んでいます。興味のある方は是非ご一読ください。 この著者には似たような著作が数冊あります。
 
 

会津舊事雑考

 投稿者:立木観音  投稿日:2013年10月 7日(月)19時56分27秒
返信・引用
  最近会津舊事雑考という古文書を見つけました。 下の説明はインターネットで見つけた説明文ですが良くまとまっています。
その中に記紀には出てこない安日彦の話が出てきます。
江戸時代初めに、会津に安日彦に関する伝承が残っていたという明白な証拠です。
外東日流三郡史の内容を補強する有力な資料であることは間違いありません。
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会津舊事雑考は保科正之の命により、向井吉重が寛文12年(1672)に完成させた、会津の旧聞雑事を編年体で記述した書物。漢文体で、全9巻から成る。
その内容は、神武天皇元年より保科正之が会津へ入った寛永20年(1643)にまでわたる様々な民間伝承や古文書をまとめたもので、鐘銘や碑文までをも含んでいる。
会津の古代中世を知るに、極めて重要な資料である。

その内容の一部を紹介すると、たとえば陸奥国の最強豪族であった安倍氏の由来伝説なども採録されている。
それによれば、崇神帝の御代に奥羽の蝦夷が叛乱を起したことがあり、朝廷は大彦命(オオヒコノミコト)の子である安倍河別命(アベノカワワケノミコト=建沼河別命)を将軍として討伐させた。奥羽へ赴いた安倍河別命は非常な苦戦を強いられたが、そのとき安東(やすはる)という者が願い出で、自分は宇摩志麻治命(ウマシマジノミコト)の臣下であった安日という者の末裔である。先祖の安日は罪を得て、東国に蟄居しているが、現在にいたるまで赦免されていない。もし罪を赦してもらって命令してくれるのであれば、私は先鋒となって戦い、必ずや勝利することでありましょう、と言った。そこで安倍河別命は安東を先鋒として戦うよう命じた。安東は言葉どおりに大いに手柄を立て、その功績により安倍姓をさずけられ、さらに将軍の号を与えられた。それが奥州安倍氏の始まりであるという。
いうまでもないが、安倍氏とは、前九年の役で戦死した安倍貞任に代表される陸奥の豪族で、古代の奥羽を知るには避けられない一族である。会津の史書に、こういうことまで記してあるということが実に興味深い。

なお、「会津旧事雑考」は大正9年に出版された『会津資料叢書』に収録されている。
 

最近の発見

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 7月24日(日)10時30分47秒
返信・引用
  立木観音さん、この掲示板をはじめ、名前だけ知っていました。挨拶遅れました、帝國電網省の日野です。

最近、三内丸山遺跡で発見された絵の人物、単純な絵で縄文前期の神官か?と新聞にありましたが、良く見ると『東日流六郡誌大要』の石の神様に似ています。古田武彦氏は天照大御神の原型は「テルテル坊主」(縄文からあったらしい)としておられましたが、そうすると、縄文の神が江戸時代にも残って、「和田家文書」に載った、ということにならないでしょうか?と、考えましたがあまり根拠がないので、あくまでも「試論」です。
 

韓国時代劇が面白い

 投稿者:立木観音  投稿日:2011年 6月25日(土)00時09分14秒
返信・引用
  最近、韓国時代劇が面白いです。
朱蒙(高句麗)、キムスロ(伽耶)、善徳女王(新羅)等ですが、紀元1世紀から5世紀頃の建国ドラマです。
朱蒙では鉢巻のマーク(紋処)が三足烏(サンソクガラス)である事に驚きました。
これって神武東征を導いたヤタガラスじゃないのって思ってしまいました。
善徳女王では伽耶人(旧倭国と考えています)の武人集団が出てくるのですが、彼らが新羅人には読めない記号のような文字を使っていました。また彼らは仲間の連絡に石文字(小石を並べて記号を書く)を用いていました。
これは確か両方とも東日流外三郡誌に出ていたと思います。
また、最近読んだ本に伽耶人の天神は「夷ピ(田に比を書く)訶」(イピカ?)と書いてありました。これってひょっとするとイシカカムイの事ではと考えてしまいました。
東日流外三郡誌はまとまったストーリーのない断片的な古文書の写書きです。
それだけにこのような符合する事実が見つかるとやはり本物だと確信してしまいます。
これからもいろいろな事が判ってくると思いますね。
 

『東日流外三郡誌』について

 投稿者:皇国の護国運動家  投稿日:2011年 4月10日(日)11時12分45秒
返信・引用
  私は偽書ではないと考えています。いろいろ「帝國電網省」の掲示板で述べていますが、ここではその一つを引用しておきます。

「帝国電網省」付属掲示板における私の投稿

「和田家文書」の筆跡鑑定(1) 投稿者:護国運動家  投稿日:2011年 2月24日(木)18時00分6秒    通報
   http://www.tagenteki-kodai.jp/Uchi_Jo_031.jpg秋田孝秀『東日流内三郡誌』表紙
http://www.tagenteki-kodai.jp/Kihachiro_36001_A3h.jpg和田喜八郎による『東日流外三郡誌』レプリカ表紙

インターネット上で公開されているこの二つの文書の筆跡を調べてみよう。まず、これらは東・日・流・三・郡・誌・秋・田・孝・秀・第の11文字が共通している。従って、これらの文字がどれくらい似ているか調べれば和田喜八郎の偽作か、否かがわかるはずだ。

これについて原田実は「どうみても和田喜八郎の筆跡」といっていた。それでは実際に見てみよう。

類似した筆跡 4文字
相違した筆跡 6文字
類似率    36%

私が調べたのは、原本に似せて作られたレプリカである。それでもたったの36%しか似ていないのだ。「どうみても和田喜八郎の筆跡」といった原田実の頭はおかしいのだろうか。


 

田原の地名

 投稿者:立花メール  投稿日:2010年 4月 7日(水)00時30分58秒
返信・引用 編集済
  私は、原田実さんたちとの論争を試みました。ところが私には、反論してこられてくる理由がよく理解できないので議論を打ち切りました。私がそこで言いたかったのは、「田原の地名と多氏には強い関係がある」、ということですので、その件についての不備があれば遠慮なく切り込んできてください。

①多氏の筆頭者である太安万侶の墓誌は奈良市比瀬町から発見されているが、同じ比瀬町 には田原小学校や田原中学校がある。
②奈良県田原本町多は、多氏の発祥地ともされるが、ここには「田原」の地名と「多」の
名が同居している。
③『桓檀古記』によれば、阿蘇山に多婆羅国があったとするが、「多婆羅」は、「田原」 と読めなくもない。
④『宇佐家伝承』によれば、多氏は阿蘇地方にあった日の国から出ているされる。

これらの事実を重ねると、田原の地名と多氏は結んでいいように思えるのですが。

http://book.geocities.jp/zuko4696san

 

マリオさまへ

 投稿者:立花メール  投稿日:2010年 4月 6日(火)11時39分37秒
返信・引用
  東日流外三郡誌を読んでいますと、津軽地方で使われていた方言集といったものが出てきます。わたしは、そこから時代の新しさや古さといったものが復元できないか、と思うのですがどうでしょうか。もし復元できるなら、「同誌」は偽書ではないとする証明につながるはずなのです。

http://book.geocities.jp/zuko4696san

 

故郷が分かる?

 投稿者:マリオメール  投稿日:2010年 4月 4日(日)11時06分34秒
返信・引用
  こんにちは! 東日流外三郡誌を検索していたら引っかかってきました。当時ぼくはパソコン通信nifty青森フォーラムのシスオペを担当していて盛り上がりました。実家は和田家より50m位で小学生のころ彼からネブタの作り方などいろいろと教えてもらいました。非常に器用な方でしたね。その反面ちょっとほら吹きで、父はよく「はっちゃんのほらふき」と言ってましたね。父の話によれば戦後和田氏はマタシローという友達と日本中を旅していたようで。多分東日流外三郡誌の資料を集めていたのでが。ぼくも詳しくはわかりませんが、東日流外三郡誌を読んでいると中央の歴史に関しては詳しくわかりませんが、地元の情報として分からなかったことがいろいろ分かりました。例えば自宅の近くに「岩崎」という地名があります。なぜ岩崎なのか、東日流外三郡誌を読んでいると近くまで海、内海になっていたんですね。また秋田県にぼくの村と同じ名前の「飯詰」(いいづめ)という村があります。なぜ同じなのか。理由が書いてあります。その理由が本当なのか、和田氏の創作なのかはわかりませんが非常に納得がいきます。また津軽の神々の名「いしか ほのり がこ かむい」、この「いしか」という地名に我が家の畑があります。また古い津軽弁で「どす」(らい病)、いまの若い人は知りませんが、数十年前に亡くなった母の父から教えてもらいました。「なぜそんな古い津軽弁を知っているのか」と聞かれ「東日流外三郡誌」に書いてあったと説明をしてびっくりしておりました。津軽に残っている古いアイヌ語、津軽弁、また津軽の子守唄「山からモコ来る」、、なぜ山から蒙古がくるの分かりました。まだまだ新しい発見はいっぱいあります。最後にもう一つ、近くに南朝系の子孫「天内」(あまない)という家族が住んでいました。全体のどの程度が偽書なのかぼくにはわかりませんが、新しい発見がいっぱいありました。最近は全然読んでおりませんが、また暇を見つけて読んでみようと思っていまlす。全巻買いましたので、、、

http://mario.gnk.cc/tsugaru/sangunshi.htm

 

Re: 私の立場

 投稿者:通りがかりの偽書派  投稿日:2010年 3月27日(土)13時13分57秒
返信・引用
  > No.7[元記事へ]

立花さんへのお返事です。

> 次に取り上げる予定の、「異端書から浮ぶ邪馬台国」> 私がここで考えるのは、「ツガル誌」群書に他の異端書を組み合わせ、新たな天皇の編年を作ってみることにあります。ただし、その場合には、「ツガル誌」の科学的な立証は後回しになりますが。
(中略)
>  「ツガル誌」を肯定するにしろ、否定するにしろ、その攻め口はいくつかあると思われます。私の立場は、とりあえず「ツガル誌」を肯定し、かく天皇についての新たな編年を作ってみること、にあります。

立花さんって、ネコ彦さんですよね。
その手法が誤りであることは、以下の掲示板で原田さんたちから指摘されていますが。
そのことはきちんと明らかにされないと。
どのように反論されるおつもりですか?

「テーマ:東日流外三郡誌はいずこ」
http://www.rekishi.info/forum/forum100/20040907183131.html
 

(無題)

 投稿者:k  投稿日:2010年 3月20日(土)00時56分6秒
返信・引用
  まあがんばってね。  

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